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事業内容

  1. ハンセン病予防並びにハンセン病を正しく理解するための啓発及び宣伝に関すること
  2. ハンセン病患者の在宅治療に関すること
  3. ハンセン病患者及び回復者並びにその子弟の厚生指導に関すること
  4. 在宅患者及び回復者の家族に対する教育、援護に関すること
  5. ハンセン病の治療に関する調査、研究に関すること
  6. ゆうな藤楓センター啓発資料室運営
  7. その他本会の目的を達成するために必要な事業

年度事業の紹介

平成27年度のパネル展示会場風景
展示パネル2 展示パネル3
久米島町具志川農村環境改善センター 6月29日(月)
(写真は久米島町具志川農村環境改善センターの展示〉

ハンセン病新患者発生0を記録

公益財団法人 沖縄県ゆうな協会元理事長 犀川 一夫  
亜熱帯に属する沖縄は、かつてマラリヤ、フイラリヤやアメーバー赤痢と共にハンセン病の疫病地域であった。 今次大戦後、琉球政府は、米国民政府の協力のもと、公衆衛生に格別な努力を集中し、これらの疫病の克服にあたり、マラリヤ、フイラリヤの制圧に成功したが、ハンセン病は、慢性の感染症だけに制圧には時間がかかった。

1.新発生患者状況の推移

沖縄県時代や戦後の米軍による占領政策時代は、法による厳しい隔離政策が採られ、強制隔離を恐れた病者は、逃げ隠れし、正確な年間新発生状況を把握することは難しく、療養所への年間新入所患者数によらざるを得なかった。1960年頃は、大体60名から80名となっている。 1958年、東京に於いて第七回の国際らい学会が開かれた折、WHOは太平洋地域と南西アジア地域の合同会議を開き、国際らい学会の決議 ―――化学療法で治る時代を迎えた現在、従来の「患者隔離」政策を排し、外来、在宅治療による「治療政策」に転換すべき―――WHOとしてのハンセン病政策を行政的に如何にすべきかを論議した。この会議は、WHO本部の当時のハンセン病政策責任者、ベッケリーの意欲的な熱意によるものであった。 この会議に沖縄から出席したUSCARの公衆衛生部長マーシャル大佐は、世界のハンセン病政策が「隔離」から「治療」に変わる趨勢を見てとり、沖縄に帰るや、沖縄のハンセン病政策を「隔離」から「外来・在宅治療」に転換することを宣言し、社会に物議をかもしたのであった。 1958年、東京会議に次いで翌1959年、ベッケリーは「第二回らい専門委員会」を開き、世界のハンセン病制圧、対策を如何にするか、広く世界の専門家を集めて論議した。その歴史的な報告書は、1960年に出版されている。
次いでWHOは。この基本的な方針を世界に普及すべく、世界各地で、ハンセン病の在宅・外来治療に関するセミナーや、フィールドワークによる実習を精力的に実施し、1961年、西太平洋地域として、マニラでセミナーが開かれたのである。 琉球政府も、このセミナーに参加し、ハンセン病の政策が大きく変わる世界の状況を察知し、1961年、従来の「隔離」を中心にした日本時代の「らい予防法」を新しく「在宅治療制度」を導入し、更に療養所からの「治癒退院」を認めた「ハンセン氏病予防法」を制定したのである。 かくして沖縄県では、病者はも早や、療養所に入所することなく、社会人として、また家庭の人として在宅のまま、外来診療所で治療を受けることが可能になった。 こうした政策の下、病者は恐れることなく、安心して外来診療所に出て来て治療を受けるようになった。 統計によると1961年以後、新発生患者は、年々増加し、1967年には、年間173名もの患者を登録している。
この現象は、ひとえに「隔離政策」を採れば病者は逃げ隠れし、「外来治療制度」を採れば病者は治療を求めて集まることを示している。 したがって前述のように、1960年以前の新発生患者(新登録患者と称した方がよいかも知れない)は、60名から80名であったが、1963年には100名、1965年は、113名、1966年125名と毎年増加、1967年には173名を新しく登録したのである。これはこの年に新しくハンセン病を発病したのでなく、すでに発病していた病者が、治療を求めて治療の場、外来診療所に集まって来たことを意味している。 以後、新登録患者数は減少にてんじ、1968年には144名、1970年84名、沖縄の日本復帰の年1972年には70名と減少しているが、この頃になると年間新登録患者は、殆んど新発生患者相を呈してた。
1980年代に入り、20名から10名台が続き、1990年に入るや5名、3名と減少を示し、やがて新発生患者ゼロの年も期待できるようになった。この頃の疫学的な特徴として注目されたことは、これらの少数の発生患者は殆んど60才以上の老人に見られたことで、これらの老人発病者は、かつて昔、子供の頃に感染し、老人になり免疫低下により発病したものと考えられる。 その証拠に当時老人発病者の周辺に伝染源の見当たらないことが疫学の調査で解ったし、これらの老人がかつて小児の頃、病者と濃厚な接触をしていた例も明らかにされたからである。即ち老人の新発生の現象は、現在この地域に感染源のないことを同時に示していることになり、ハンセン病の終息を示す疫学的現象の一つのあらわれでもある。逆に小児(14才以下)の発生の見られる地域は、ハンセン病の猖獗地、ハンセン病のまだ燃えている地域と見てよい。 沖縄も琉球政府時代は、各地で学童に新発生患者を見ており、療養所には、小・中学校が附設されていた。
2000年に入り、財団法人沖縄県ゆうな協会(旧・財団法人沖縄県ハンセン病予防協会)の外来診療所の統計では新発生患者は急速に減少、年間1~2名、時にはゼロの年もあった。 琉球大学病院、愛楽園、南静園を含めた全沖縄県の統計でも年間2~3名を繰り返していたが、2005年に至り、終に新発生患者ゼロを記録するに至った。 前述のようにハンセン病は極めて慢性の感染症であり、年間2~3名の患者が何処で発生するか、予測は難しいが、とにかく長年公衆衛生に関わってきた者としては、悲願であった沖縄県のハンセン病の制圧を見たことは御同慶の至りである。 それはとにかくとして、この20年以上、小児に新発生を見てないことは、現在、沖縄県内にハンセン病の感染源のないことを意味しており、亜熱帯地域の疫病として制圧の残っていたハンセン病を克服出来たことは、この上ない喜びである。 ちなみに現在、愛楽園、南静園に在住する人たちは、完全に治癒した人たちで、ハンセン病を病んでいる人ではない。 従って感染の恐れの全く無い、後遺症を持つ身体障害者であることをここで強調して置きたい。 その意味で、現在沖縄県には、ハンセン病を病んでいる人は一人も居ないことになるのである。

2.沖縄県に於けるハンセン病制圧活動の経緯

旧沖縄県時代、琉球政府時代を含め、沖縄県は、常に慢性的な医療人の不足に苦しんで来た。特に戦後の米軍軍政府時代、米民政府時代の苦悩は思いにまさるものであった。 そんな悪環境の内で、ハンセン病はもとより、マラリヤ、フイラリヤなどの亜熱帯病の制圧を成しとげた先輩医療人の努力はなみなみのものではなかった。 1971年1月、沖縄に赴任して来て先ず気付いたことは、こうした医療体制の内で、地域の保健所の保健活動の目覚しいことであった。 取り分け私の注目を引いたのは、離島及び僻地の駐在公衆衛生看護婦(公看)及び、学校養護教論の存在であった。 彼女たちは、実に几帳面に、誠実に、情熱をもって地域の保健、衛生活動に取り組み、その仕事振りは、見事だった。
一方、私は治療をすれば治るようになったハンセン病の対策は、患者にとって最も便利で、都合のよい方法を選ぶべきであるとの信念から、WHO勤務時代から、病者を施設に隔離することなく外来診療所への通院で治癒し、更には通院出来ない病者には薬をとどける移動治療班による在宅治療方式を採って来た。この通院・在宅治療を進めるためには、どうしても一般医療機関(保健所、一般診療所)や、そこで働いている一般医療人(保健婦、医師)の理解と協力を得なければならない。 この体制作りに、私は東南アジア各地で大変な苦労を続けて来たのである。 沖縄でこの政策を進めるためには、第一に地域に根をはって活躍している公看や学校養護教論の協力なしには実施出来ないし、現在の彼女達の協力を得れば、必ず沖縄のハンセン病は制圧出来る。そんな明るい自信を私はいだいていた。 以来、公看や学校養護教論の会合には機会のある毎に出席、協力を呼びかけ続けた。
ハンセン病を制圧することは、地域から病者を療養所に隔離収容し、地域を「無らい地域」にするのでなく、地域の感染源である病者を在宅のまま、社会人として治療することなのである。このような対策を採れば、この感染症は必ず新発生がなくなり終息する。 この哲理は、1953年11月、インド・ラクノー市で開催された英国「MTL」と、米国の「ALM」の共同国際らい会議で私が学んだことであった。 こうした対策の実施にあたり、1957年以降実施された日本政府の「琉球政府へのハンセン病対策援助」として行われた「学童に対する検診」及び「住民皮膚検診」が大きく貢献したことを忘れてはならない。 このプロジェクトは、以来復帰後も行われ、多くのハンセン病専門医が沖縄に出張協力された。その際早期発見された病者の多くは、地域社会で学童のまま、成人の病者は、家庭の人として在宅で治療を受けたのであった。
ハンセン病の療養所愛楽園・南静園に入所することなく治療の受けられる外来診療を実施し、「らい予防協会」(現・財団法人沖縄県ゆうな協会)は、那覇市のみならず宮古平良市や石垣島の八重山保健所の協力を得て、外来治療を実施して来た。 こうした対策の体制が確立すれば、新患者発生ゼロ制圧は時間の問題と見られていた。 昨年、平成17年度の新患者発生ゼロは、こうした成果の結果である。 終りにここに至った際に今はすでに故人となられた多くの本土の医療人をはじめ、協力を惜しまなかった沖縄の一般医療人の方々に心から感謝を申し上げたいと思う。

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